あこがれとときめき。

フリッパーズギター
はじめて聴いた時

とても
胸がときめいたことを

今でも
覚えています。

強烈なまでの
外国へのあこがれと共に

黒い髪や
黄色い肌

ずんぐりとした
自分自身の体型の

なんとなく
ダサくてイケてない

自分自身を
この音楽なら
救ってくれるような

淡い希望を重ね合わせて
聴いていたように
思います。

コーネリアスの報道を見て
あらためて

自虐史観というか
コンプレックスの生み出す

強烈なまでの
才能の開花への道筋を
見たような気がしています。

かっこいい自分になりたくて
なれなくて自信がなくて

小山田圭吾
空っぽで狂ってたんだなあ。

でも
そのくるしさが
神がかった才能を産むわけで。

でも
最終的には
自分自身をきちんと
愛せなければ

いつまでたっても
人を愛することは
できないよね。

いじめられる経験も
いじめる経験も
怪我をする経験も
たたかれる経験も

それが
人間のこころを育てる
栄養になるから

無駄なことはないけど。

なんか
やっぱり
もっと子どもたちが
自分自身を愛せるような

もっと
中身のある教育は
できないものなのか?


思ってしまう。

ひさびさに聴く
フリッパーズギター

やっぱり最高。

いじめられるキモチがわかった
小山田圭吾がどう変わるのか。

これからが
たのしみな気もする。

贖罪は音楽で
聴かせてよ。って。

わたしは
許すってことも

愛なんじゃないかな。
って

思ったりもします。

たいせつなことは
論破し合うこと
叩きあうことではなく

解決するために
何故そうなったのか?

原因をさがし
話し合うことなんじゃないかなあ。f:id:mirefugio:20210718131155j:plain