おばあちゃん。

ランチタイムに

このお椀
お気に入り❤️


お客さまに

言っていただく
このお椀は

おばあちゃんが
私が子どもの頃に

買ってくれた
お椀です。

つい
最近

気がついたの
ですが

私が
茶店

異常に執着している
原因は

おばあちゃんの
つくってくれる
朝ごはん

だったのではないか?
ということ。

淹れたての珈琲か紅茶に
オリーブオイルを
塗ったトースト
卵料理にレバーペースト
小さいチーズにサラダ

あの
おばあちゃんの
つくってくれた

すてきな朝ごはんの
よろこびに似た

何かを
たくさんの人のこころに
再生したいんだろうな。

それにしても
私は異常なくらい

おばあちゃんが好き
というか

自分のおばあちゃんに
心底、憧れている。

97歳のおばあちゃんに
それを伝えないまま

時だけが
過ぎてしまっているけれど

おばあちゃんが
私にくれた愛が

倍々に
広がって

たくさんの人に
届いてるとしたら

なんか
やっぱり

愛ってやつは
すごいもんだな。


思う
深夜0時。

好きな人にはさあ

生きてるうちに
ちゃんと

好きって
言わなくちゃね。

私が
よい孫だったかは

別として(笑)

はあー。
おばあちゃんの家と
持ち物と才能も
まるごとほしいくらい

私は
おばあちゃんが
好きだなあ。



















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彼女は夢で踊る

実家に
かえったので

20代のころ
聴いていたCDを

もって
帰ってきた。

店に戻って
聴いてみると

音楽が好き

という
キモチが

しぜんにあふれて
おどろいた。

老舗タンゴ喫茶で
働いていた
とか

高品質珈琲と名曲(笑)
とか

わたしは
知らないうちに
見栄をはって

無理をしていたの
かもしれない。

音楽が好き
写真が好き
茶店が好き

この
好きってキモチに

もっと
すなおに

生きれたら
よかったのかも

しれないな。

思ったら

大好きな
映画を思い出した。

不器用でも
すなおじゃなくても

まあ
いいか。

ひとは
欠けてるから

なにかを
もとめ

好きに
なるんだから

欠けてるのも

きっと
悪くない。




#彼女は夢で踊る

11周年。

11年前の
今日。

私の隠れ家は
プレオープンしました。

仕事も私生活も
ぜんぜん
上手にできなくて

反省してばかりの
11年間だったけど

それでも
隠れ家に
来てくれる

お客さんのきもちが
うれしくて

拙い仕事を
つづけてこれたこと

こころから
感謝しています。

来年の7月末で
私の隠れ家での今のカタチの
営業は終了となります。

そのあと
どうするかは。

この場所を
次に使ってくれる

人たちのキモチを
最大限

尊重して
決めてゆきたいな。


思っています。

緊急事態宣言
解除されたら

10月4日から
お店開けたいと
思っています。

最後まで
みなさまご要望の
周年パーティーとか

できなくて
ごめんなさい。

ほら
コロナだし…

自分の誕生日
祝われるのも
苦手なんで

ゆるして(笑)

ひろい
ひろい
東京の中で

隠れ家をみつけてくれて
ありがとう。

ひとりの少女の夢を
叶えてくれたのは

みなさんですよ。

さあ
さあ

残りの日々を
たいせつに

11年間の感謝をこめて
精一杯仕事します!

世界。

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たいへんな
思いをして

お母さんが
通わせてくれた 

ろくでのない
ファッション学校で

わたしが
得たものは

ズボンの丈を
治す能力と

音楽と身体を
重ねるよろこび

だけ
かもしれない。

渋谷系が好きな
クラブ世代

当時としては
よくいるパターンの

自堕落な
日々をすごして

得たものは

常識を軽々越える
突破力と

音楽のある
豊かな生活。


より

いろんな音楽を
聴いてきたような

気がしてる
けど

カラダを
音と

重ねる
よろこびを

おしえてくれたのは

この人の
音楽だったのかもしれない。

なすすべもなく
世界と溶け合う

10年ぶりの
きもちよさ。

この
最高の体感を
 
きっと
ずっと

まっていた。

#FreeTEMPO
#Sekai

10年ぶりの
アルバム

天才すぎて
コワイ…

世界を救うのは
どこまでも

うつくしい
音楽かもね。

躍動するいのち。

物質だけ
豊かで、平和で 

生きる意味も
わからない

ぼやっとした
金に目の眩んだ
あやふやな大人たちに
育てられた

わたしたちの世代は
確実に狂っていたと思う。

ドラッグもいじめも
ふつうにそばにあったし

深夜まで踊り狂ったり
セックスの氾濫の中でも

生きる意味を探すために
リストカットしたり
いじめたり
いじめられたり

でもわたしたちは
そういう
見せかけの平和の中で

平坦な戦場を作りだして

自分たちなりに
生きるうつくしさを
解放区を探してきた

その先端が
電気グルーヴであり
コーネリアスであり
小沢健二であり
岡崎京子

だったんだと思う。

少なくとも
この人たちの作品が
私の青春の生きる希望だったことは
紛れもない真実なのに。

清廉潔白でいて
生きてる意味を学べる
世界をつくってこなかった

社会や教育や政府の人間が
当時まだ未成年だった

この世代の行いを
糾弾する権利があるのかな?

見て見ぬふりしていた
学校が糾弾されるべき
なんじゃないのかな。

そもそも
任命した政府が謝るべきだし。

日常的に
いじめをくりかえす
未成年たちの行いを
見て見ぬふりしていたくせに

目立ったその山のてっぺんだけ
ひっぺがして

立ち直れないくらい
ボコボコにして

負の連鎖は
続いてゆく。

あーっ。
なんなんだよ一体。これは〜。

岡崎京子がもし
元気だったらなんて言ってたかな。

知りたいよ。

あこがれとときめき。

フリッパーズギター
はじめて聴いた時

とても
胸がときめいたことを

今でも
覚えています。

強烈なまでの
外国へのあこがれと共に

黒い髪や
黄色い肌

ずんぐりとした
自分自身の体型の

なんとなく
ダサくてイケてない

自分自身を
この音楽なら
救ってくれるような

淡い希望を重ね合わせて
聴いていたように
思います。

コーネリアスの報道を見て
あらためて

自虐史観というか
コンプレックスの生み出す

強烈なまでの
才能の開花への道筋を
見たような気がしています。

かっこいい自分になりたくて
なれなくて自信がなくて

小山田圭吾
空っぽで狂ってたんだなあ。

でも
そのくるしさが
神がかった才能を産むわけで。

でも
最終的には
自分自身をきちんと
愛せなければ

いつまでたっても
人を愛することは
できないよね。

いじめられる経験も
いじめる経験も
怪我をする経験も
たたかれる経験も

それが
人間のこころを育てる
栄養になるから

無駄なことはないけど。

なんか
やっぱり
もっと子どもたちが
自分自身を愛せるような

もっと
中身のある教育は
できないものなのか?


思ってしまう。

ひさびさに聴く
フリッパーズギター

やっぱり最高。

いじめられるキモチがわかった
小山田圭吾がどう変わるのか。

これからが
たのしみな気もする。

贖罪は音楽で
聴かせてよ。って。

わたしは
許すってことも

愛なんじゃないかな。
って

思ったりもします。

たいせつなことは
論破し合うこと
叩きあうことではなく

解決するために
何故そうなったのか?

原因をさがし
話し合うことなんじゃないかなあ。f:id:mirefugio:20210718131155j:plain

神秘主義。

f:id:mirefugio:20210714122403j:plainコスパ主義的
屁理屈王集団。

ひろゆきとか
ホリエモンとか
ダイゴとかばっかりが
もてはやされておりますが(笑)

彼らに象徴される
美を嘲笑うあやふやで猥褻な
コスパ主義的戦後の日本に。

芥正彦も三島由紀夫
負けたのかもしれないなあ。

右と左を結ぶものこそ。
神秘主義のような気がする。 

人間を超える
圧倒的存在への調和。

日本には
絶対的宗教がないからさ

戦前生まれの三島は
天皇って
言っただけで。

それは
美しくありたいと願う
人々の象徴としての存在。

だったんじゃないかな。 


圧倒的な美を前にすれば
人は祈ることしかできないし

やっぱり
左とか右とか言って
対立すること自体が無意味で

人間を超える
圧倒的神秘主義
存在に調和してゆく

うつくしさについて
議論するべき
なんじゃないかな。

拙い日本語で
論破しようとしてくる
大学生を決して馬鹿にしない。

三島は
つよくてやさしいね。

芥正彦も
弱さを認める強さがある。

ほんとうにつよくないと
やさしくはなれないから。

登場人物たちの日本語に
生きようと懸命にもがく
美しい魂がやどっている。

いやあ。この映画。
ものすごいおもしろかった。

かっこいいって
こういうことだと
思うけどなあ。

かっこい〜。