たとえば。

世にいう
安定した生活と
いうもの。


あれは
動物園の檻の中だ
とする。


わたしは
写真をやっていた頃。


狂ったように(笑)
動物園へ行き
動物たちを見つめ
写真を撮っていた。


檻の中にだって
しあわせはあるはずだ。


それを
撮りたい。


そう
思ってシャッターを
切りつづけた。



それは
潜在意識の中での
自己肯定感の模索。


さがしていたのは
親に守られていた
暮らしの中の
希望のようなもの。


でも
撮りつづけても


そこに
写るものは


動物たちの意思や
ひかりではなく


人間たちの
一方的な愛情や執着。


だけだったのだ。




安定した生活。


というものは
感受性を
鈍らせてゆく。


わかりやすく
いえば


ぼーっと
してしまう。



いうことだ。




感動というものは
与えられるものではなく


自らの感受性によって
感じるものなのだ。


うつくしい芸術も
惜しみない愛も


まずは
受けとる側の
感受性がなければ


何の意味もない。


それでは
何がいちばん
感受性を育てるのか?



それは
たぶん。


一人一人
自分自身に
まけないこと。


簡単に
いえば。


執着を捨て
自らと
戦いつづけること。


なのだと
思う。



野生の動物は
常に危険に
さらされている。


つまり
ぼーっとしてたら
生きてはゆけない。



いうこと。


それが
地球のシステムとしての
スタンダード。


からだが
震えるほどのよろこびや


止まらない涙も


感じられる
からだでいたいなら。


やっぱり
挑戦は
つづけなければ
いけない。



白州正子という
女性がいた。


無内容にこそ
内容がある。


という
ことば。


たいせつなのは
感じるという
機能をうしなわないこと。



ぼーっとしては
いけない。


うつくしいことばに
ふれるたび


姿勢をただして。


ふりかえる。